絶対善を定義する

絶対的に正しいを探求しています

公(みんな)の為とは?

私は絶対的に正しい事は「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せを守る事」を「公(みんな)の為」と言っています。また絶対善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」です。これも略して「公の為」と言っています。公の為はこのふたつをひとつで表せる便利な言葉ですが、少し紛らわしくもありますが、みんなの為、社会の為に役に立つと言う意味です。

 公の為とは「みんなの安心・幸せ、社会の安寧秩序の為」ということでもあります。公の為とはみんなで話し合い、多数決ではなく少数の意見も尊重し、みんなが一番納得して「これが一番みんなの為だろう」と妥協するということなのです、これが公(みんな)の為という意味です。この「公の為」の公が誤解されやすいのですが、公とは私(自分)以外または、自分たち(グループ)以外と言う事です。滅私奉公の私と公です。

 公を辞書で引けば

1  政府。官庁。国家。天皇

  個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。

と書いてあります。私の言う公は2番の意味です。決して政府、官僚ではなく、その仲間の群れである「みんな」という意味です。

最大の公は基本的に仲間の群れである国民・民族となる。最小の公なら友人、家族などとなる。例えば友達との問題であれば友達が公であり、自分が私となります。私たち以外とは一部のグループという意味です。例えば政府や官僚組織が「私たち(グループ)」に該当します。ですから政府や官僚組織は私であり、国民みんなが公になります。

最大の公とは国民全体のことですから、もし国、政府や官僚が間違っていると思えば「それは公の為(国民の為)なのか!」と国民が国、政府を問い詰めなければならないのです。

  公とは”仲間”と認識している群れです。分かり易く言えば、家族。これには皆さんも仲間と感じているでしょう。それゆえ家族の為ならどんなことも厭わない。しかし他の家族は基本的に仲間ではない。他の家族の為に自分を犠牲にはしたくないと思う。

そしてまた最大の公と言えば国民・民族が仲間です。敵から身を守るための群れです。日本でいえば自衛隊という軍隊が守っている群れです。ですから世界は仲間にはなれないのです。

勿論、国民は自分の家族のような仲間意識はないが、それでも大災害などで他の県民が困っていたら助けに行きたくなる。莫大な金が復興の為、投資され税金が上がっても、あんまり文句は言わない、なぜなら日本人という仲間意識があるからです。

 でも他国には仲間意識はもっともっと薄くなります。他民族とは利害関係になります。世界で最も親日的と言われる台湾でも「尖閣諸島は台湾のものだ」と主張しています。いつ大きなトラブルに発展するかもしれません。そうなれば彼らは敵です。

このように他国、他民族は仲間にはなれないのです。ときには他国も仲間である、世界みな兄弟と綺麗ごとを言う人々がいます。そう思うのであれば世界で大きな災害があるたびに莫大なお金を海外に拠出しなければなりませんよ、なぜなら仲間・同胞なのですから。

まあ、基本的には世界は敵とまでは思ってはいませんから世界の問題についても「公(世界)の為」とやれるのが理想です。しかしやはり世界の問題となれば各国は自国の利益を優先し主張することになるので、なかなか私欲(各国の利益)を抑え、公(世界)の為と考えることができないのです。やはり基本的には公の最大は世界ではなく自国民であるとなるのです。

そして公は”問題”により決まります。家族の問題なら家族が公、学校の問題なら学校が公、国の問題なら国民が公のように。つまり何か問題が生じたとき、その問題に関係している最大の仲間の群れを基本的に公というのです。ですから基本的に問題により公は決まってしまいます。勝手に「これを公にしよう」と決めてはならないのです。いろんな問題があり公を決めるのは難しいこともありますが、自然と決まってしまいます。

公を優先する行為とは理想的には私を捨て公平な立場、無私の立場、責任のあるトップの立場、大げさに言えば神の立場に立って「公の為」と考えることなのです。しかし人間にはそんな芸当はなかなかできません。それでもできるだけ私欲を抑えトップの立場に立ち、責任感をもって公の為と考える事が大切なのです。本当の仲間なら家族のようにそれができるのです。

 「公を優先して」と言えば「いや自分の為も考えなければいけないでしょう」という人たちがいる。しかし私たちは、いつも自分の事ばかり考えている存在なのです、自分が大好きなのです。例えば唾は自分の口に在る時は汚くは感じないが、口からいったん外に出ればもう汚い存在となり、臭い汚いと言って触ろうともしない。自分のケツは拭けるが、他人のケツはなかなか拭けないでしょう。私たちはこのように自分のことが大好きで、常に自分の事ばかり考えている存在なのですから、自分の為などとあまり意識しなくてもいいのです。

  例えば、ある学校で問題が起こったとします。その時は公とは学校を指します。それに対して各教員たち、または生徒たは“私”です。その問題を正しく解くためには一人一人が自分たちの私欲を抑え公(学校全体)を優先する、つまりみんな一人一人が学校のトップの立場に立って考えれば、やがて正しい答えに辿りつけます。しかしこの時,公を優先しないで、みんなが私と公を同じくらいと考えたらどうでしょうか、正しい答えにたどり着けるでしょうか。やはり何か問題が起きた時には、難しいことではあるが常に私欲を抑え、公の為とみんなが考えなければ正しい答えにはなかなか辿り着けないと思うのです。公に私を含ませ考えていたら、みんなに私欲が出てしまい正しい答えにはなかなか辿り着けません。自分自身が公の為にと考える時は、なるべく私欲を挟んではならないのです。その代わり他の人たちは私の事も含めて公の為と考えてくれているのです。自分のことはみんなが考えてくれているのですから心配しなくていいのです。

 また 絶対的に正しいことは公の為というと必ず次のような質問が出て来ます「公の為というのは、ヒトラーにも通ずる全体主義的な匂いがする、組織を守る為に害悪と判断されたユダヤ人を虐殺することも公の為となるのではないのか?」と。

しかしドイツが他民族を虐殺すると言う問題なら本来、これは世界に共通する問題ですからドイツが公ではなく、世界が公でなければなりません。またもしドイツを公にするにしても、ここで言う公とはドイツ国民全体であり、ナチス政権は私になります。ですからドイツ国民みんなで話し合ってユダヤ人を虐殺するのがドイツ国民の為になるかどうか話し合えばいいのです。勿論、ドイツ国民全体がヒトラーに洗脳されていれば、これはもうそういう集団なのですからどうしようもありません。

 私の言う絶対善とは常に私欲を抑え、みんなで公の為と考えることを基本としています。公の為とみんなで考えられる環境がなければ、正しい答えは出せません。しかし独裁国家は公の為という考えがありませんし、洗脳された集団では、まともな判断などできません。ゆえに、こんな状況下では絶対善などありえないのです。独裁国家や頭のおかしい集団では、そもそも正しい判断など出せないのですから、このような例外で「公の為」を否定するのはおかしいのです。

  独裁国家も「公の為」を利用できるから「公の為」という善の定義は間違いであるというのであれば、それは神の真の教えであっても彼らは利用しますから、その神の教えもすべて否定しなければならなくなります。頭のおかしい人や集団が「公の為」を利用すれば、確かに間違った方向へ行くかもしれませんが、そのような稀な例でもって善の定義を否定してはならないのです。

道徳的正しさ、善というのは数学のように一切矛盾がないと言う事ではないのです。多少矛盾もあるかもしれないが、日常生活において、ほとんど正しく、社会にとって有益であればそれを使っていこうと言うのが、善であり大人の知恵なのです。

 また善とは本来、仲間の群れを守る為に形作られてきたものであり、敵を侵略してどうのこうのという性質は含んでいないのです。「公の為に他国を侵略するのは善なのか」と問われても困るのです。あえて言えば群れ、民族を守る戦いは善であり、他民族を滅ぼす侵略は悪である。またお互いに生存を掛けた戦いには善悪はなく、強い方が生き残る、それが自然の法則です。

   基本的に公の最大は各国民・民族になります。公とは敵から身を守る仲間の群れを指します。ライオンの群れでも他のライオンの群れが像などに襲われていても助けようとはしません。自分たちの群れを保存することが善なのです。自分たちの群れを命がけで守る事こそ、ライオン全体の種族保存に繋がるのです。

 善は私より公を優先する行為です。利害関係ではなく、お母さんが子供の為と無私の心でやる行為、思いやりが善なる行為の基本なのです。仲間・家族にはそれができるのです。ですから善は基本的に仲間と思うものの為に在ります。また仲間と思うのは人間だけとは限りません。その時に敵ではなく仲間であると思えれば全てのものに対して善なる行為ができるのです。

例えば犬や猫が穴に落ちていたら助けようとするでしょう。敵ではなく仲間との思いがあるからです。でもゴキブリが出てきたら、すぐ殺します、仲間と思っていないからです。猟師も飛んでいる鳥は撃ち殺しますが、懐に飛び込んできた鳥は殺せません。なぜなら、この地上でともに生きている仲間と感じるからです。このように公は何も人間だけに適用されるものではないのです。

 また、あり得ないことですが、もし宇宙人が人類を襲ってきたら、人間は他の動物とは違い、理性がありますから、世界が一致団結し、一時的に世界が仲間・家族となる事が出来ます。世界が仲間・家族となれば、その仲間を守ることが絶対善になり、世界は利害関係から善なる関係になります。しかしやがて宇宙人が去れば、また元の各民族が仲間に戻り、自分の仲間(民族)を守ることが絶対善になるのです。

この例のように群れ、仲間が変わっても、その時の種族、仲間を守るということが絶対善なのです。しかし宇宙人が襲ってくることなど考えられないことでありますから、基本的には各国民・民族(仲間の群れ)を公と考えればいいのです。

  勿論、国民は仲間ではありますが、国民が危機的状況でないならば仲間意識も薄くなります。善は私より公を優先する行為と言っても、公を優先する度合いも平和時には薄くなっていくのです。現代においては民族が絶滅させられ種族が保存できない状況になる事はないでしょうが、核戦争や中国のように他国を侵略し民族浄化を行っている悪の民族には気を付けねばなりません。

それらを除けば、今、世界は種族(民族)保存は十分に計られているので、世界の目的は人権や幸福の追及に移っています。それゆえ種族保存に反するようなことも多少は許されてくるのです。

しかし絶対的に正しいことは種族(国民・民族)保存です。この基本を絶対に忘れてはなりません。自由だ、人権だ、男女平等だとあまりにきれいごとばかりに流されていれば、やがて種族(民族)保存は適わなくなってしまいます。そこは充分に気を付けなければなりません。