絶対善を定義する

絶対的に正しいを探求しています

公(みんな)の為とは?

私は絶対的に正しい事は「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せを守る事」を「公(みんな)の為」と言っています。また絶対善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」分かり易く言えば「私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」です。これも略して「公の為」と言っています。公の為はこのふたつをひとつで表せる便利な言葉ですが、少し紛らわしくもありますが、みんなの為、社会の為に役に立つと言う意味です。

 公の為とは「みんなの安心・幸せ、社会の安寧秩序の為」ということでもあります。公の為とはみんなで話し合い、多数決ではなく少数の意見も尊重し、みんなが一番納得して「これが一番みんなの為だろう」と妥協するということなのです、これが公(みんな)の為という意味です。この「公の為」の公が誤解されやすいのですが、公とは私(自分)以外または、自分たち(グループ)以外と言う事です。滅私奉公の私と公です。

 公を辞書で引けば

1  政府。官庁。国家。天皇

  個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。

と書いてあります。私の言う公は2番の意味です。決して政府、官僚ではなく、その仲間の群れである「みんな」という意味です。

最大の公は基本的に仲間の群れである国民・民族となる。最小の公なら友人、家族などとなる。例えば友達との問題であれば友達が公であり、自分が私となります。私たち以外とは一部のグループという意味です。例えば政府や官僚組織が「私たち(グループ)」に該当します。ですから政府や官僚組織は私であり、国民みんなが公になります。

最大の公とは国民全体のことですから、もし国、政府や官僚が間違っていると思えば「それは公の為(国民の為)なのか!」と国民が国、政府を問い詰めなければならないのです。

  公とは”仲間”と認識している群れです。分かり易く言えば、家族。これには皆さんも仲間と感じているでしょう。それゆえ家族の為ならどんなことも厭わない。しかし他の家族は基本的に仲間ではない。他の家族の為に自分を犠牲にはしたくないと思う。

そしてまた最大の公と言えば国民・民族が仲間です。敵から身を守るための群れです。日本でいえば自衛隊という軍隊が守っている群れです。ですから世界は仲間にはなれないのです。

勿論、国民は自分の家族のような仲間意識はないが、それでも大災害などで他の県民が困っていたら助けに行きたくなる。莫大な金が復興の為、投資され税金が上がっても、あんまり文句は言わない、なぜなら日本人という仲間意識があるからです。

 でも他国には仲間意識はもっともっと薄くなります。他民族とは利害関係になります。世界で最も親日的と言われる台湾でも「尖閣諸島は台湾のものだ」と主張しています。いつ大きなトラブルに発展するかもしれません。そうなれば彼らは敵です。

このように他国、他民族は仲間にはなれないのです。ときには他国も仲間である、世界みな兄弟と綺麗ごとを言う人々がいます。そう思うのであれば世界で大きな災害があるたびに莫大なお金を海外に拠出しなければなりませんよ、なぜなら仲間・同胞なのですから。

まあ、基本的には世界は敵とまでは思ってはいませんから世界の問題についても「公(世界)の為」とやれるのが理想です。しかしやはり世界の問題となれば各国は自国の利益を優先し主張することになるので、なかなか私欲(各国の利益)を抑え、公(世界)の為と考えることができないのです。やはり基本的には公の最大は世界ではなく自国民であるとなるのです。

そして公は”問題”により決まります。家族の問題なら家族が公、学校の問題なら学校が公、国の問題なら国民が公のように。つまり何か問題が生じたとき、その問題に関係している最大の仲間の群れを基本的に公というのです。ですから基本的に問題により公は決まってしまいます。勝手に「これを公にしよう」と決めてはならないのです。いろんな問題があり公を決めるのは難しいこともありますが、自然と決まってしまいます。

公を優先する行為とは理想的には私を捨て公平な立場、無私の立場、責任のあるトップの立場、大げさに言えば神の立場に立って「公の為」と考えることなのです。しかし人間にはそんな芸当はなかなかできません。それでもできるだけ私欲を抑えトップの立場に立ち、責任感をもって公の為と考える事が大切なのです。本当の仲間なら家族のようにそれができるのです。

 「公を優先して」と言えば「いや自分の為も考えなければいけないでしょう」という人たちがいる。しかし私たちは、いつも自分の事ばかり考えている存在なのです、自分が大好きなのです。例えば唾は自分の口に在る時は汚くは感じないが、口からいったん外に出ればもう汚い存在となり、臭い汚いと言って触ろうともしない。自分のケツは拭けるが、他人のケツはなかなか拭けないでしょう。私たちはこのように自分のことが大好きで、常に自分の事ばかり考えている存在なのですから、自分の為などとあまり意識しなくてもいいのです。

  例えば、ある学校で問題が起こったとします。その時は公とは学校を指します。それに対して各教員たち、または生徒たは“私”です。その問題を正しく解くためには一人一人が自分たちの私欲を抑え公(学校全体)を優先する、つまりみんな一人一人が学校のトップの立場に立って考えれば、やがて正しい答えに辿りつけます。しかしこの時,公を優先しないで、みんなが私と公を同じくらいと考えたらどうでしょうか、正しい答えにたどり着けるでしょうか。やはり何か問題が起きた時には、難しいことではあるが常に私欲を抑え、公の為とみんなが考えなければ正しい答えにはなかなか辿り着けないと思うのです。公に私を含ませ考えていたら、みんなに私欲が出てしまい正しい答えにはなかなか辿り着けません。自分自身が公の為にと考える時は、なるべく私欲を挟んではならないのです。その代わり他の人たちは私の事も含めて公の為と考えてくれているのです。自分のことはみんなが考えてくれているのですから心配しなくていいのです。

 また 絶対的に正しいことは公の為というと必ず次のような質問が出て来ます「公の為というのは、ヒトラーにも通ずる全体主義的な匂いがする、組織を守る為に害悪と判断されたユダヤ人を虐殺することも公の為となるのではないのか?」と。

しかしドイツが他民族を虐殺すると言う問題なら本来、これは世界に共通する問題ですからドイツが公ではなく、世界が公でなければなりません。またもしドイツを公にするにしても、ここで言う公とはドイツ国民全体であり、ナチス政権は私になります。ですからドイツ国民みんなで話し合ってユダヤ人を虐殺するのがドイツ国民の為になるかどうか話し合えばいいのです。勿論、ドイツ国民全体がヒトラーに洗脳されていれば、これはもうそういう集団なのですからどうしようもありません。

 私の言う絶対善とは常に私欲を抑え、みんなで公の為と考えることを基本としています。公の為とみんなで考えられる環境がなければ、正しい答えは出せません。しかし独裁国家は公の為という考えがありませんし、洗脳された集団では、まともな判断などできません。ゆえに、こんな状況下では絶対善などありえないのです。独裁国家や頭のおかしい集団では、そもそも正しい判断など出せないのですから、このような例外で「公の為」を否定するのはおかしいのです。

  独裁国家も「公の為」を利用できるから「公の為」という善の定義は間違いであるというのであれば、それは神の真の教えであっても彼らは利用しますから、その神の教えもすべて否定しなければならなくなります。頭のおかしい人や集団が「公の為」を利用すれば、確かに間違った方向へ行くかもしれませんが、そのような稀な例でもって善の定義を否定してはならないのです。

道徳的正しさ、善というのは数学のように一切矛盾がないと言う事ではないのです。多少矛盾もあるかもしれないが、日常生活において、ほとんど正しく、社会にとって有益であればそれを使っていこうと言うのが、善であり大人の知恵なのです。

 また善とは本来、仲間の群れを守る為に形作られてきたものであり、敵を侵略してどうのこうのという性質は含んでいないのです。「公の為に他国を侵略するのは善なのか」と問われても困るのです。あえて言えば群れ、民族を守る戦いは善であり、他民族を滅ぼす侵略は悪である。またお互いに生存を掛けた戦いには善悪はなく、強い方が生き残る、それが自然の法則です。

   基本的に公の最大は各国民・民族になります。公とは敵から身を守る仲間の群れを指します。ライオンの群れでも他のライオンの群れが像などに襲われていても助けようとはしません。自分たちの群れを保存することが善なのです。自分たちの群れを命がけで守る事こそ、ライオン全体の種族保存に繋がるのです。

 善は私より公を優先する行為です。利害関係ではなく、お母さんが子供の為と無私の心でやる行為、思いやりが善なる行為の基本なのです。仲間・家族にはそれができるのです。ですから善は基本的に仲間と思うものの為に在ります。また仲間と思うのは人間だけとは限りません。その時に敵ではなく仲間であると思えれば全てのものに対して善なる行為ができるのです。

例えば犬や猫が穴に落ちていたら助けようとするでしょう。敵ではなく仲間との思いがあるからです。でもゴキブリが出てきたら、すぐ殺します、仲間と思っていないからです。猟師も飛んでいる鳥は撃ち殺しますが、懐に飛び込んできた鳥は殺せません。なぜなら、この地上でともに生きている仲間と感じるからです。このように公は何も人間だけに適用されるものではないのです。

 また、あり得ないことですが、もし宇宙人が人類を襲ってきたら、人間は他の動物とは違い、理性がありますから、世界が一致団結し、一時的に世界が仲間・家族となる事が出来ます。世界が仲間・家族となれば、その仲間を守ることが絶対善になり、世界は利害関係から善なる関係になります。しかしやがて宇宙人が去れば、また元の各民族が仲間に戻り、自分の仲間(民族)を守ることが絶対善になるのです。

この例のように群れ、仲間が変わっても、その時の種族、仲間を守るということが絶対善なのです。しかし宇宙人が襲ってくることなど考えられないことでありますから、基本的には各国民・民族(仲間の群れ)を公と考えればいいのです。

  勿論、国民は仲間ではありますが、国民が危機的状況でないならば仲間意識も薄くなります。善は私より公を優先する行為と言っても、公を優先する度合いも平和時には薄くなっていくのです。現代においては民族が絶滅させられ種族が保存できない状況になる事はないでしょうが、核戦争や中国のように他国を侵略し民族浄化を行っている悪の民族には気を付けねばなりません。

それらを除けば、今、世界は種族(民族)保存は十分に計られているので、世界の目的は人権や幸福の追及に移っています。それゆえ種族保存に反するようなことも多少は許されてくるのです。

しかし絶対的に正しいことは種族(国民・民族)保存です。この基本を絶対に忘れてはなりません。自由だ、人権だ、男女平等だとあまりにきれいごとばかりに流されていれば、やがて種族(民族)保存は適わなくなってしまいます。そこは充分に気を付けなければなりません。

絶対善の定義について

絶対的に正しい事、つまり絶対善の定義を私がどのようにして導いたのかを書いてみます。

私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい正しいと思っているのでしょうか? 私は「命や全財産を賭けても自分の意見は正しいと言えるのだろうか?」 このように自問自答したとき、自分の意見に対してまったく自信が持てなくなってしまいました。

  それから正しいとは一体何なのだろうか?と考え始めました。しかも曖昧な正しさでは役に立ちません。やはり正しいも絶対的な正しさでなければならないのです。また善と言っても、それもやはり絶対善でなければならないのです。

 絶対的な正しささえ分かれば、どんな問題でも、この絶対的正しさに論理的、道理的に合致してさえいれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。 絶対的正しさが分からないから私たちは自信を持って主張することが出来ないでいるのです。

  「正しい」を辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから本当に正しいと言えるのです。

例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。その正しいあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて「自分の考えは正しい」としてマルがもらえるのです。

  正しいあるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しい」なんて少し傲慢すぎると思いませんか、自分は神ではないのですから。しかし世間ではすべてこうなのです、自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです、あるべき姿がないのです。ですから時に私は自分自身に問うたように、相手に対しても「命や全財産を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。

  正しさには科学的正しさと道徳的正しさがあります。基本的に科学的、道徳的に共通して正しいとは「矛盾がない」と言うことです、間違いがないと言うことです。辞書にあるように基本的には「正しい」とは「あるべき姿と合致していて矛盾がない」と言うことです。ですから絶対的に正しいと言えるためには絶対的なあるべき姿を見つけなければならないのです。それに合致していてこそ絶対的に正しいと言えるのです。

  また私たちは正しいと善は同じように考えていますが、やはり正しいと善は多少の違いがあるのです。私たちは困っている人を助ける行為を見れば「善いな~、偉いな~」と感じます。

 また大切なものを守ることは「正しい」と感じます。これは「善いな~」という感じではなく「正しい」という感じがするのです。この正しいと善の分別は大切なところです。

 それではまず善の定義とは・・・・

  善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」などとあります。言うなら善は「道理に適っていて善いこと」と言えるでしょう。しかしそれは説明であり本当に知りたい善の本質ではありません。

 ネットで善を調べてみたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはありませんでした。そこで、いろいろと自分で考えていたら「これが善ではないのか」というものに辿り着きました。

  「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、ふと気付いたのはこれら多くの悪なる行為の全てに共通しているのは「他人のことより自分のことばかりを優先しているでは?」ということでした。そしてこれを自分が考えたすべての悪なる行為に当てはめてみれば、すべての悪に共通、内包していたのです。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は「自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先することである」ということになる、略して「公(みんな)の為」です。(次の投稿の公の為とは?を参照)

  私より公を優先する行為、つまり思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である。つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした」これは帰納法的証明であり、内包的定義です。最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろうから、これは世界共通善ともいえます。

  次に(道徳的に)正しい事の定義とは・・・・

 私たちは大切なものを守ることは正しいと感じます。それでは最も大切なものを守ることは最も正しいことであるとなります。

また世界各国にとって最も大切なものは、その国民の命であろう。つまり最も大切な国民の命を守ることは最も正しい事である、となる。

また国民、民族の命を守り存続させる事、それはいわゆる種族(民族)保存のことである。

これらから「最も正しいことは種族(民族)保存である」ということが道理的、論理的に導かれる。これは演繹的な証明です。

 これは時代を超え世界の国民、民族にも共通することであるから普遍性もあります。ですからこれを絶対的正義としました。また絶対的正義という言葉は日常あまり使用しませんので、主に「絶対的に正しいこと」と書いています。また時にこれも便宜上、絶対善とも書いています。

 人間の歴史は民族を守る為の戦いの歴史でした。その国民、民族にとって最も大切で、最も正しいことは、その民族の生命、財産を守ることなのです。これは時代を超え、国を超えて世界に共通する考えである。また現代においては種族(民族)が滅ぶということはあまり考えられませんので、社会の安寧秩序、みんなの幸せなどが絶対的に正しいことと考えてもいいでしょう。

  善なる行為を多く考えて、その本質を見つけたのが絶対善であり、大切なものを守ると言う命題から演繹法的に導いたのが絶対的に正しい事です。

  種族(群れ仲間、民族)を保存することが絶対的に正しい事と言うのは、何となく納得できるにしても「私より公を優先することが絶対善である」と言われても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義である。

 しかし、この定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか、募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも「私より公を優先すること」なのです。

 例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思い、私欲がある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思い、私欲を抑えて相手の思いを優先して席を譲るというのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること」の意味なのです。分かり易く言えば「私欲を抑え公(みんな)の為と考えて行うこと」なのです。

 「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです。自分のことは何も考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為に尽くしておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。

  以前から私の絶対善に対する考えの根本にあったのは・・・・

 「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何十億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族(群れ)保存である。ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは「命を賭けて種族(群れ)を保存せよ」と言う事であろう。我々人間の知恵では絶対善を決められないのであれば、この大自然の、大宇宙の意志を絶対善と言わずに何を絶対善と言うのであろうか。ゆえに「絶対善とは種族(群れ)保存のことである」 と、このように考えていたのである。

  私にはこの絶対善の説明が一番しっくりとくるのだが、これでは他の人たちはなかなか納得してくれないのです。それで上記のように論理的にも考えてみたのです。しかし、あらゆる生物たちが数十億年もの間、本能の意に従って行ってきたことが、悪であるはずはなく、自分たちにとって正しいからこそ命を懸けて行ってきたと考えるのが道理ではないだろうか。

  私は、群れでなければ生きていけない生物たちが長い年月をかけ試行錯誤し種族を保存する為に一番確かなシステムとして見つけたのが、自分より公(群れ)を優先することではないだろうか、と考えています。ですから「公の為」は群れで行動するすべての動物たちにとって共通する本能であろうと思うのです。

 群れでなければ生きていけない人間の道徳観も、この種族保存のシステム、本能からきているのではないだろうかと考えています。いや、人に関するすべてのことは、種族保存の為に創られ存在しているのではないだろうかと思うのです。

 

つまりこのようにも言えるのではないだろうか・・・何のために生まれたのか、種族保存の為である。何のために生きるのか、種族保存の為である。愛とは何なのか、種族保存の為にある。嫉妬とは何か、種族保存の為にある。芸術とは何の為にあるのか、種族保存の為である。何故、悲しむのか種族保存に合致しないからである。何故、感動し涙を流すのか、種族保存に合致するからである。つまりすべては種族(群れ)保存の為に創られ存在するのです。

 勿論、何のために種族を保存をしなければならないのかは永遠の謎でしょう。大自然の、宇宙の意志、法則と言うしかありません。

 私は論理学の内包的定義や演繹的方法により善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。善は見つけるものであり、作るものではないのです。善のイデアは原始からそこに在るものなのです。私たちが創るものではありません。

 内包的定義は、帰納法的な定義である。私はみんなが善なる行為であろうと言うものを数多く考えてみましたが、そのすべてに「思いやり、公の為」が含まれていたのです。そしてみんなが善なる行為であろうと思うものには何かしら感動が伴うのです。

理性で考えられた道徳的正しさ、つまりルール、規範(信号を守る、税金を納める、勉強をするなど)にはあまり感動はありません。本能、良心から来る「善いな~、偉いな~」などの何かしら感動を伴うのが本当の善なるものなのです。理性による正しさも本能的善を基にしているのです。善とは本能的であり、正しいとは理性的なものです。

 もし私の善の定義が間違いであると言うならば「多くの人がこれは善なる行為であろうと認めるもので、私より公を優先していないもの、思いやりでないもの」を示せばいいわけです。これを示せない限り皆さんがどんなに言葉を尽くしても、私の善の定義を否定したことにはならないのです。また否定するならば論理的に否定しなければならないのです。あなた達の価値観に合わないからと言って否定されても善の定義は揺らがないのです。

 

 まとめてみれば、私が見つけたのはその群れにとって絶対的に正しいことは「種族(群れ)保存をすること」なのです。そしてその群れ、仲間を守るために最も優れていること(絶対善)が「私(自分)より公(みんな)を優先する行為である」と言うことです。

 そしてあらゆる社会的問題を考えるとき絶対的に正しいあるべき姿、それは種族(群れ、民族)保存であり「公(みんな)の為」なのです。またそれは社会の安寧秩序、平和の存続の為ということです。そしてそれに辿り着く最高の方法が、私より公を優先すること、つまり私欲を抑え「公の為」とみんなで考えることなのです。

この 「公の為」は絶対的に正しい事も、絶対善も、この「公の為」ひとつで表わせる便利な言葉なのです、意味は少し違いますが。

 勿論、絶対善である「私より公を優先する行為」で考えても間違うことはあるでしょう。私たちは神ではなく人間であり、完璧な答えなど出せません。例えば思いやりをもって席を譲っても「俺を老人扱いするのか!」と言われることもあります。このように絶対善は絶対的に正しい結論が出せるということではありません、そこを勘違いしないでください。人間は自分たちの賢さに比例した結論しか出せないのです。また善は相手があることですから、うまくいかないこともあるのです。

  私欲を抑えて公の為とみんなで考えても、その結果が公の為にならないことも、たまにはあるでしょう。また人生万事塞翁が馬であり、世界の英知を集めて結論を出しても世の中何が起こるか分からないのです。私たち人間は絶対的に正しい答えなど出せないのです。それでも「私欲を抑え、公の為とみんなで考えること」、これだけは総合的に見て絶対的に正しいことなのです。たとえ時に間違った結果が出ようと「私より公を優先すること、愛や思いやり」を否定してはならないのです、やり続けることが絶対的に正しいことなのです。これ以上に正しいことがあると言うならば、それを示してください。

  私たち生物にとって一番大切なことはやはり「仲間の群れを守ること」です。生物たちは長い年月をかけ試行錯誤をして種族(群れ)保存する為に最も優れたものが「私より公を優先する行為」であると見つけたのです。また「私より公を優先する行為」を行ってきた種族だけが生き残ってきたと言ってもいいでしょう。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいという本能的なものなのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。

 絶対善である「私より公を優先する行為」は数十億年の試練、検証に耐えて正しいとして現在まで生き残ってきたのです。つまり数十億年のバックボーンがあるのです。ゆうならば「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」は「絶対的に正しいことである」と自然界においてはすでに決定していることなのです。誰がこれを否定できるでしょうか。そしてそれは今後も未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。それゆえ「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は「絶対善」であるとして問題はないと思うのです。本来、絶対など神にしか使えない言葉ですが、あえてこれはもう「絶対善」としてもいいのではないかと思うのです。

  そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的”真理”」といえるのではないでしょうか。そして「私より公を優先すること、愛や思いやり」は私たちにとって最も美しいことなのです、「美」なのです。つまり善こそが真であり美なのです。真こそが善であり美なのです。美こそが善であり真なのです。

 皆さん、絶対的に正しいこと、そして絶対善はあるのです。絶対的なあるべき姿は「種族、群れ保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公(みんな)の為」であり、それに辿り着く最高の方法が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」なのです。

 善は本能であり、生まれつきみんなが共通して持っているものなのです。まだ理性のよく発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的な実験で実証されています(赤ちゃん 善悪 で検索)。ですから善、良心はみんなに共通しているものなのです、相対的ではなく絶対的なものなのです。生物は全て性は善なのです。性善説が正しいのです。

 善の定義を簡単に言えば、何か問題が起きた時、みんなの為になる一番よい方法は「私より公を優先すること、つまり私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。 社会が一番うまくいくためには「愛や思いやり」なのだよ、と大自然は教えてくれているのです。そのように考えることが最も正しい答え、結論に辿り着ける最高の方法なのです。勿論、時には間違うこともあるでしょうが、これをやり続けるしかないのです。これこそが他のいかなる方法よりも絶対的に正しいことなのですから、これ以上のものはないのですから。やはり何事においても私欲を優先していては正しい結論には辿り着けません。

  あらゆる社会的問題は社会の安寧秩序、公(みんな)の為にあります。すべては公(みんな)の為にあるのです、これは真実です。そしてその社会的問題の正しい答え、結論は常に「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致していなければならないのです。

  絶対的に正しいことは種族(群れ)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり「公の為」、そして絶対善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」これだけしかありません。絶対的なことはこの他にはないのです。現在「これは絶対的である」と考えられている事もすべては相対的なのです。例えば人を殺すことは絶対に悪いと考えられていますが、戦争になれば敵兵を殺すことは善になります。人権さえも公の為にならないならば悪になるのです、つまりすべては相対的なのです。「何事もこれは絶対的に正しいこと、悪いことである」と安易に決めつけてはならないのです。

ましてや自分が考えたことが「正しいのだ」などと言う考えは捨てなければなりません。道徳的に絶対的に正しいこと、つまり公の為に道理的、論理的に合致していることだけが「絶対的に正しい」と言えるのです、他にはありません。

  以上が私が見つけた善の定義です。皆さん、正しいとは何か?しかも絶対的に正しいとは何か?が分かったのです。絶対的に正しいことさえ分かれば、どんな社会的問題でも、この絶対的正しさ、絶対善「公(みんな)の為」に論理的、道理的に合致さえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。そして絶対善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」で問題をみんなで考えることが最も正しいことなのです。

  勿論、この善の定義は民主主義的な話し合いが出来るという環境が絶対条件なのです。独裁国家などでは成り立ちません。やっと民主主義的な世の中になったのですから、私欲を少し抑えて公の為とみんなで議論をすれば、正しい答えになる確率はグ~ンと高くなるのです。

 この善の定義が多くの人に理解され「正しいとは何か」が分かってくれば国や政府、マスコミなどの権力に対しても「それは正しいのか!公(みんな)の為なのか!」と言えるようになり、日本は正しい善い国になれるのです。日本が善い国になり模範となれば、それはやがて世界の平和へと繋がっていくのです。