絶対善を定義する

絶対的に正しいを探求しています

絶対善の定義について

絶対的に正しい事、つまり絶対善の定義を私がどのようにして導いたのかを書いてみます。

私たちは普通、自分の考えたことは正しいと思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? ではどのくらい正しいと思っているのでしょうか? 私は「命や全財産を賭けても自分の意見は正しいと言えるのだろうか?」 このように自問自答したとき、自分の意見に対してまったく自信が持てなくなってしまいました。

  それから正しいとは一体何なのだろうか?と考え始めました。しかも曖昧な正しさでは役に立ちません。やはり正しいも絶対的な正しさでなければならないのです。また善と言っても、それもやはり絶対善でなければならないのです。

 絶対的な正しささえ分かれば、どんな問題でも、この絶対的正しさに論理的、道理的に合致してさえいれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。 絶対的正しさが分からないから私たちは自信を持って主張することが出来ないでいるのです。

  「正しい」を辞書で引けば「あるべき姿があり、それと合致している様」と書いてあります。つまり絶対的なあるべき姿があり、それと合致するから本当に正しいと言えるのです。

例えば数学の問題が出たとします、その問題にはすでに正しい式と答えがあります。それが正しいあるべき姿です。その正しいあるべき姿と自分が考えた式や答えが合致していて初めて「自分の考えは正しい」としてマルがもらえるのです。

  正しいあるべき姿を考えずに「ただ自分が考えたことが正しい」なんて少し傲慢すぎると思いませんか、自分は神ではないのですから。しかし世間ではすべてこうなのです、自分が考えたことが正しいと主張する人ばかりなのです、あるべき姿がないのです。ですから時に私は自分自身に問うたように、相手に対しても「命や全財産を賭けてもそう言えるのですか?」と問うのです。

  正しさには科学的正しさと道徳的正しさがあります。基本的に科学的、道徳的に共通して正しいとは「矛盾がない」と言うことです、間違いがないと言うことです。辞書にあるように基本的には「正しい」とは「あるべき姿と合致していて矛盾がない」と言うことです。ですから絶対的に正しいと言えるためには絶対的なあるべき姿を見つけなければならないのです。それに合致していてこそ絶対的に正しいと言えるのです。

  また私たちは正しいと善は同じように考えていますが、やはり正しいと善は多少の違いがあるのです。私たちは困っている人を助ける行為を見れば「善いな~、偉いな~」と感じます。

 また大切なものを守ることは「正しい」と感じます。これは「善いな~」という感じではなく「正しい」という感じがするのです。この正しいと善の分別は大切なところです。

 それではまず善の定義とは・・・・

  善の意味を辞書で調べれば「善いこと」「道理にかなっていること、また、そのような行為」「道徳的に正しい行為」などとあります。言うなら善は「道理に適っていて善いこと」と言えるでしょう。しかしそれは説明であり本当に知りたい善の本質ではありません。

 ネットで善を調べてみたが、善は人それぞれであり、相対的であるとか、定義できないとか、またいろいろ難しく書いてあるだけで、どれも納得するようなものはありませんでした。そこで、いろいろと自分で考えていたら「これが善ではないのか」というものに辿り着きました。

  「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗み、詐欺などなどである。ある時、ふと気付いたのはこれら多くの悪なる行為の全てに共通しているのは「他人のことより自分のことばかりを優先しているでは?」ということでした。そしてこれを自分が考えたすべての悪なる行為に当てはめてみれば、すべての悪に共通、内包していたのです。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は「自分(私)のことよりも公(みんな)のことを優先することである」ということになる、略して「公(みんな)の為」です。(次の投稿の公の為とは?を参照)

  私より公を優先する行為、つまり思いやりは時代を超え、民族を超え世界に共通する善である。つまり普遍的なものであろうから、これを絶対的善とした」これは帰納法的証明であり、内包的定義です。最近ではマザー・テレサの評判はあまり良くないようだが、分かり易い例えとして言えば、マザー・テレサのように自分の私欲を抑えて他人、公の為に尽くす人を善人という。これは時代を超え、国を超え世界に共通するものであろうから、これは世界共通善ともいえます。

  次に(道徳的に)正しい事の定義とは・・・・

 私たちは大切なものを守ることは正しいと感じます。それでは最も大切なものを守ることは最も正しいことであるとなります。

また世界各国にとって最も大切なものは、その国民の命であろう。つまり最も大切な国民の命を守ることは最も正しい事である、となる。

また国民、民族の命を守り存続させる事、それはいわゆる種族(民族)保存のことである。

これらから「最も正しいことは種族(民族)保存である」ということが道理的、論理的に導かれる。これは演繹的な証明です。

 これは時代を超え世界の国民、民族にも共通することであるから普遍性もあります。ですからこれを絶対的正義としました。また絶対的正義という言葉は日常あまり使用しませんので、主に「絶対的に正しいこと」と書いています。また時にこれも便宜上、絶対善とも書いています。

 人間の歴史は民族を守る為の戦いの歴史でした。その国民、民族にとって最も大切で、最も正しいことは、その民族の生命、財産を守ることなのです。これは時代を超え、国を超えて世界に共通する考えである。また現代においては種族(民族)が滅ぶということはあまり考えられませんので、社会の安寧秩序、みんなの幸せなどが絶対的に正しいことと考えてもいいでしょう。

  善なる行為を多く考えて、その本質を見つけたのが絶対善であり、大切なものを守ると言う命題から演繹法的に導いたのが絶対的に正しい事です。

  種族(群れ仲間、民族)を保存することが絶対的に正しい事と言うのは、何となく納得できるにしても「私より公を優先することが絶対善である」と言われても、私たち凡人にはなかなか納得しがたい定義である。

 しかし、この定義をそんなに大げさに考えなくてもいいのです。善にも大から小まであります。我々凡人の善は、お年寄りに席を譲るとか、募金をするとか、ボランティアをやるとか、普段我々がやっている小さな親切、思いやりを実行することも「私より公を優先すること」なのです。

 例えば、電車などで席を譲るにしても「自分も疲れている、できれば座っていたい」という自分の思い、私欲がある。しかし相手のことを思いやれば、相手の方が大変であろうと、自分の思い、私欲を抑えて相手の思いを優先して席を譲るというのも小さいながらも善なのです。これが善の定義「私より公を優先すること」の意味なのです。分かり易く言えば「私欲を抑え公(みんな)の為と考えて行うこと」なのです。

 「私より公を優先するなんて私にはとてもできない」と思いがちですが、私たちは日ごろから何気なく行っているのです。余裕のある範囲でやればいいのです。自分のことは何も考えず他人に尽くすと言うことではないのです。勿論、本当に偉い人たちは自分を捨て、みんなの為に尽くしておられる人もいますが、私たち凡人は小さな思いやり、小さな親切をやればいいのです。

  以前から私の絶対善に対する考えの根本にあったのは・・・・

 「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何十億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族(群れ)保存である。ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは「命を賭けて種族(群れ)を保存せよ」と言う事であろう。我々人間の知恵では絶対善を決められないのであれば、この大自然の、大宇宙の意志を絶対善と言わずに何を絶対善と言うのであろうか。ゆえに「絶対善とは種族(群れ)保存のことである」 と、このように考えていたのである。

  私にはこの絶対善の説明が一番しっくりとくるのだが、これでは他の人たちはなかなか納得してくれないのです。それで上記のように論理的にも考えてみたのです。しかし、あらゆる生物たちが数十億年もの間、本能の意に従って行ってきたことが、悪であるはずはなく、自分たちにとって正しいからこそ命を懸けて行ってきたと考えるのが道理ではないだろうか。

  私は、群れでなければ生きていけない生物たちが長い年月をかけ試行錯誤し種族を保存する為に一番確かなシステムとして見つけたのが、自分より公(群れ)を優先することではないだろうか、と考えています。ですから「公の為」は群れで行動するすべての動物たちにとって共通する本能であろうと思うのです。

 群れでなければ生きていけない人間の道徳観も、この種族保存のシステム、本能からきているのではないだろうかと考えています。いや、人に関するすべてのことは、種族保存の為に創られ存在しているのではないだろうかと思うのです。

 

つまりこのようにも言えるのではないだろうか・・・何のために生まれたのか、種族保存の為である。何のために生きるのか、種族保存の為である。愛とは何なのか、種族保存の為にある。嫉妬とは何か、種族保存の為にある。芸術とは何の為にあるのか、種族保存の為である。何故、悲しむのか種族保存に合致しないからである。何故、感動し涙を流すのか、種族保存に合致するからである。つまりすべては種族(群れ)保存の為に創られ存在するのです。

 勿論、何のために種族を保存をしなければならないのかは永遠の謎でしょう。大自然の、宇宙の意志、法則と言うしかありません。

 私は論理学の内包的定義や演繹的方法により善の定義を導いたのです、恣意的なものではないのです。善は見つけるものであり、作るものではないのです。善のイデアは原始からそこに在るものなのです。私たちが創るものではありません。

 内包的定義は、帰納法的な定義である。私はみんなが善なる行為であろうと言うものを数多く考えてみましたが、そのすべてに「思いやり、公の為」が含まれていたのです。そしてみんなが善なる行為であろうと思うものには何かしら感動が伴うのです。

理性で考えられた道徳的正しさ、つまりルール、規範(信号を守る、税金を納める、勉強をするなど)にはあまり感動はありません。本能、良心から来る「善いな~、偉いな~」などの何かしら感動を伴うのが本当の善なるものなのです。理性による正しさも本能的善を基にしているのです。善とは本能的であり、正しいとは理性的なものです。

 もし私の善の定義が間違いであると言うならば「多くの人がこれは善なる行為であろうと認めるもので、私より公を優先していないもの、思いやりでないもの」を示せばいいわけです。これを示せない限り皆さんがどんなに言葉を尽くしても、私の善の定義を否定したことにはならないのです。また否定するならば論理的に否定しなければならないのです。あなた達の価値観に合わないからと言って否定されても善の定義は揺らがないのです。

 

 まとめてみれば、私が見つけたのはその群れにとって絶対的に正しいことは「種族(群れ)保存をすること」なのです。そしてその群れ、仲間を守るために最も優れていること(絶対善)が「私(自分)より公(みんな)を優先する行為である」と言うことです。

 そしてあらゆる社会的問題を考えるとき絶対的に正しいあるべき姿、それは種族(群れ、民族)保存であり「公(みんな)の為」なのです。またそれは社会の安寧秩序、平和の存続の為ということです。そしてそれに辿り着く最高の方法が、私より公を優先すること、つまり私欲を抑え「公の為」とみんなで考えることなのです。

この 「公の為」は絶対的に正しい事も、絶対善も、この「公の為」ひとつで表わせる便利な言葉なのです、意味は少し違いますが。

 勿論、絶対善である「私より公を優先する行為」で考えても間違うことはあるでしょう。私たちは神ではなく人間であり、完璧な答えなど出せません。例えば思いやりをもって席を譲っても「俺を老人扱いするのか!」と言われることもあります。このように絶対善は絶対的に正しい結論が出せるということではありません、そこを勘違いしないでください。人間は自分たちの賢さに比例した結論しか出せないのです。また善は相手があることですから、うまくいかないこともあるのです。

  私欲を抑えて公の為とみんなで考えても、その結果が公の為にならないことも、たまにはあるでしょう。また人生万事塞翁が馬であり、世界の英知を集めて結論を出しても世の中何が起こるか分からないのです。私たち人間は絶対的に正しい答えなど出せないのです。それでも「私欲を抑え、公の為とみんなで考えること」、これだけは総合的に見て絶対的に正しいことなのです。たとえ時に間違った結果が出ようと「私より公を優先すること、愛や思いやり」を否定してはならないのです、やり続けることが絶対的に正しいことなのです。これ以上に正しいことがあると言うならば、それを示してください。

  私たち生物にとって一番大切なことはやはり「仲間の群れを守ること」です。生物たちは長い年月をかけ試行錯誤をして種族(群れ)保存する為に最も優れたものが「私より公を優先する行為」であると見つけたのです。また「私より公を優先する行為」を行ってきた種族だけが生き残ってきたと言ってもいいでしょう。それは時には自分の命を捨てても群れを守りたいという本能的なものなのです。これを人間的な言葉にすれば「愛や思いやり」とも言えます。

 絶対善である「私より公を優先する行為」は数十億年の試練、検証に耐えて正しいとして現在まで生き残ってきたのです。つまり数十億年のバックボーンがあるのです。ゆうならば「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」は「絶対的に正しいことである」と自然界においてはすでに決定していることなのです。誰がこれを否定できるでしょうか。そしてそれは今後も未来永劫変わることのない普遍的なものでしょう。それゆえ「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は「絶対善」であるとして問題はないと思うのです。本来、絶対など神にしか使えない言葉ですが、あえてこれはもう「絶対善」としてもいいのではないかと思うのです。

  そしてそれは人間だけでなく、すべての生物に関する一つの「絶対的”真理”」といえるのではないでしょうか。そして「私より公を優先すること、愛や思いやり」は私たちにとって最も美しいことなのです、「美」なのです。つまり善こそが真であり美なのです。真こそが善であり美なのです。美こそが善であり真なのです。

 皆さん、絶対的に正しいこと、そして絶対善はあるのです。絶対的なあるべき姿は「種族、群れ保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公(みんな)の為」であり、それに辿り着く最高の方法が「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」なのです。

 善は本能であり、生まれつきみんなが共通して持っているものなのです。まだ理性のよく発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的な実験で実証されています(赤ちゃん 善悪 で検索)。ですから善、良心はみんなに共通しているものなのです、相対的ではなく絶対的なものなのです。生物は全て性は善なのです。性善説が正しいのです。

 善の定義を簡単に言えば、何か問題が起きた時、みんなの為になる一番よい方法は「私より公を優先すること、つまり私欲を少し抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。 社会が一番うまくいくためには「愛や思いやり」なのだよ、と大自然は教えてくれているのです。そのように考えることが最も正しい答え、結論に辿り着ける最高の方法なのです。勿論、時には間違うこともあるでしょうが、これをやり続けるしかないのです。これこそが他のいかなる方法よりも絶対的に正しいことなのですから、これ以上のものはないのですから。やはり何事においても私欲を優先していては正しい結論には辿り着けません。

  あらゆる社会的問題は社会の安寧秩序、公(みんな)の為にあります。すべては公(みんな)の為にあるのです、これは真実です。そしてその社会的問題の正しい答え、結論は常に「種族(民族)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり公の為」に合致していなければならないのです。

  絶対的に正しいことは種族(群れ)保存、社会の安寧秩序、みんなの幸せ、つまり「公の為」、そして絶対善である「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」これだけしかありません。絶対的なことはこの他にはないのです。現在「これは絶対的である」と考えられている事もすべては相対的なのです。例えば人を殺すことは絶対に悪いと考えられていますが、戦争になれば敵兵を殺すことは善になります。人権さえも公の為にならないならば悪になるのです、つまりすべては相対的なのです。「何事もこれは絶対的に正しいこと、悪いことである」と安易に決めつけてはならないのです。

ましてや自分が考えたことが「正しいのだ」などと言う考えは捨てなければなりません。道徳的に絶対的に正しいこと、つまり公の為に道理的、論理的に合致していることだけが「絶対的に正しい」と言えるのです、他にはありません。

  以上が私が見つけた善の定義です。皆さん、正しいとは何か?しかも絶対的に正しいとは何か?が分かったのです。絶対的に正しいことさえ分かれば、どんな社会的問題でも、この絶対的正しさ、絶対善「公(みんな)の為」に論理的、道理的に合致さえしていれば、自信をもって「自分の考えは正しい」と言えるのです。そして絶対善である「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」で問題をみんなで考えることが最も正しいことなのです。

  勿論、この善の定義は民主主義的な話し合いが出来るという環境が絶対条件なのです。独裁国家などでは成り立ちません。やっと民主主義的な世の中になったのですから、私欲を少し抑えて公の為とみんなで議論をすれば、正しい答えになる確率はグ~ンと高くなるのです。

 この善の定義が多くの人に理解され「正しいとは何か」が分かってくれば国や政府、マスコミなどの権力に対しても「それは正しいのか!公(みんな)の為なのか!」と言えるようになり、日本は正しい善い国になれるのです。日本が善い国になり模範となれば、それはやがて世界の平和へと繋がっていくのです。